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武蔵野航海記

武蔵野航海記

続「日本人のための憲法原論」を読んで

イギリスの革命の原因の一つが宗教上の対立であることも、この革命を分りにくくしています。

スチュアート家の国王たちもカトリック教徒がいたり、イギリス国教会を支持するのがいたりで複雑なのです。

また水平派という過激派が150年後のフランス革命みたいに主権在民、普通選挙や共和制を主張しました。

このように時代を先取りした政治思想も出てくるのです。

この辺を整理すると下記のようになります。

国王がイギリス人の尊重する「慣習」を守らないということから騒動がおきたのです。

国王が議会の承認を得た上で政治を行うという「慣習」を無視したのです。

またマグナカルタなどの古い慣習には不当な逮捕を行ってはならないというのもあったのですが、専制化した国王はこれも無視したのです。

ジェントリー階級にはカルヴァン派のプロテスタントが多かったのですが、彼らはローマ法王という僧侶階級を認めません。

そしてローマ法王をイギリス国王にすげ替えただけで、僧侶階級を残したイギリス国教会に反感を持っていました。

一方国王にしてみれば、カトリックやイギリス国教会は神が国王の権威を保証しているわけで、非常に自分に好都合の教義を持っています。

こうして「慣習」と「宗教」を巡る対立が起きたのです。

そして神への信仰生活を最優先にし、神の教えに反することには断固として戦うというプロテスタントのスピリットによって反抗が助長されました。

これが第一ラウンドです。

革命が進展し国王を死刑にしてしまうと、従来の精神的な重石が吹っ切れてしまい、「神の下では国王も庶民も同じ人間ではないか」という平等の思想が盛り上がってきました。

そこから普通選挙の実施と私有財産の廃止という過激派の主張が出てきたのです。

一方、「私有財産は神が認めたものであり、それを奪うのは神に逆らうことである」という考えがプロテスタントにもともとありました。

国王が所有者の了解無しに課税するのは私有財産の侵害であり、神を恐れない行為だという主張が革命の初期になされたのです。

このようにして、私有財産と信仰の自由を堅持するプロテスタントと私有財産を廃止して完全な平等を目指す無産階級の対立になって行きました。

これが第二ラウンドです。。

私有財産を巡る第二ラウンドの争いは私有財産堅持派が勝ちました。

その途中で、戦乱を収め平和を回復するためにスチュワート家の国王を復活させることまでしました。

しかし彼らはプロテスタントの信仰と「慣習」に対する心情や議会の勢力の大きさを遂に理解できず、イギリスを追い出されてしまいました。

1688年の名誉革命で追い出された王はカトリック信者でしたが、その実の娘はプロテスタントで、オランダ総督(実質的な国王)の妻でした。

イギリスの議会はこの夫婦にイギリス国王になることを要請しましたが、条件をつけることも忘れませんでした。

夫婦がこの条件を認めたので、両者の間に契約が成立しました。

この契約が「権利の章典」というものです。

この中にはイギリス人が血を流して戦いとったものが全て含まれています。

議会の尊重・・これは昔からの慣習を守れという意味でもあります

議会の同意なき課税をしないこと・・これは私有財産の保護という意味も含みます

王位継承者からカトリック信者を排除すること・・これを信教の自由に反する規定と理解するべきではないと思います。

カトリック以外は認めているからです。

カトリックを排除したのは、カトリック信者は自国よりもローマ法王の利益を重視しているので国王にふさわしくないという意味です。

また無神論を排除していると考えるべきです。

ジョン・ロックは無神論を容認していませんし、これより百年後でおこったフランス革命に思想的根拠を提供したルソーは「無神論を執拗に主張する者は死刑にすべきだ」と言っています。

「信教の自由」には本来宗教を持たない自由は含まれていないのです。

これだけの社会的、思想的変革が「予定説」から始まったのです。

そしてはるか極東のキリスト教とは縁もゆかりもない日本人にまで、「人類普遍の思想」だと誤解させるまでに普及したのです。

また私有財産が絶対だという思想もキリスト教の信仰だということも忘れないでください。

小室博士はジョン・ロック(1632~1704)を多くのページを使って説明しています。

私も彼について以前ブログに書きましたが、名誉革命後の政治社会を思想的に説明し、さらに経済学の元祖でもあって重要な人物なのです。

ロックと同時代にホッブス(1588~1679)という学者がいて、革命による内乱を見て安定した世の中の必要性を痛感しました。

「国王が主権者としてイギリスを統治したら世の中は平和になる」というのが彼の結論で王党派だったのです。

革命派はコモンローという慣習法とプロテスタントの教理を盾に国王に反抗してきましたので、彼はこれに対抗する理論を作り出したのです。

プロテスタントという教義に対抗して別の宗派の教義を主張すれば宗教戦争になってしまい、彼の目的とする平和に反します。

そこで万人が納得する「理性」によって説明しようとします。

そして「自然状態」という国家のない状態を仮定して、そこから論を進めたのです。

彼のやり方は社会を単純化したモデルを使って分析するという近代的な社会科学の方法で画期的なことだったのです。

彼はまず人間とは何か?と考えます。

人間とは生き延びようとする生物だと考えました。

食べ物を確保し身を守ることを最優先にします。

だから人間にとって体に快いものは善で、そうでないものは悪です。

また、経験にもとづいて将来を想像できます。つまり将来必要になるものが何か前もって分るということです。

明日になると腹が減ることは分っているので、今日のうちに明日の食糧を確保しておこうとします。

このようにして欲望が無限に膨らんでいきますが、食糧を初めとする資源は有限なので、その資源を巡って人間同士が争います。

社会組織がなく人間は一人ですから決定的な優劣のない平等な社会です。

勿論頭脳や体の差はありますが、弱者は強者の隙を突いて逆襲できるわけで、決定的な優劣がないのです。

お互いにどんぐりの背比べの立場ですから争いが絶えません。

「万人の万人に対する戦い」という状態になるのです。

ホッブスは人間が生き延びようとするのは仕方のないことで、悪いといっても無意味だと考えます。

だから生き延びる権利を「自然権」として肯定します。

従来の考え方では、たとえ生きるためであっても他人の縄張りを荒らすのは悪いと考えます。

食うものがなければおとなしく飢え死にしろというものでした。

ホッブスの「自然権」というのは画期的な発想なのです。

人間が生き延びるための「自然権」を認めたところで、万人の万人に対する戦いの状態は解消できません。

そこでホッブスは「社会契約説」を主張します。

社会契約説はジョン・ロックやルソーが有名ですがホッブスが元祖なのです。

大勢の人間が集まって、一定のルールを決めてそれに従うことで社会を作ろうという契約です。

こういう社会契約を結んでも必ずルール破りが出てくる。人間というのはそんなに高尚なものではないとホッブスは考えます。

そこで一旦社会契約を結び、王に対して自分の持っている「自然権」の一部を委託したら、王は強力な力でそれを行使しルール破りを防がなければならないと考えるのです。

かくして昔、イギリス人は社会契約を結び王に統治を委託したのだから、王様に従わなければならないという結論になるわけです。

一旦社会契約を結べばそれは取り消しできない、即ち抵抗権は無いというのがホッブスの理論です。

ホッブスは王党派でしたが、ジョン・ロックは革命側でした。

そしてホッブスと同じく「理性」に基づいて政治理論を展開しました。

ロックもホッブスと同じく、国家や社会ができる前の「自然状態」を想定します。

しかしロックの「自然状態」は、有限な資源を奪い合う「万人の万人に対する戦い」の状態ではありません。

神が人間の必要とするものを恵んでくれている状態なのです。

人間は労働をすることによって収穫を増やすことが出来るからです。

原野を開墾して農地にしてそこを耕したり、遠隔地に出かけていって交易を行うことによって人間の必要とするものを入手できるのです。

このようにロックは労働により富を増やすことが出来ると主張したのですが、これは経済学の基本でありかれは経済学の元祖です。

経済学は生産活動の要素として「資本」「土地」「労働」をあげますが、この考え方はロックに始まり、アダム・スミスに引き継がれていったのです。

神は自然を作り、それを人間が活用するように命令したとロックは考えました。

人間は神の命令を受けて、自分の労働を投入して荒野を開墾して農地にしたわけですからその農地は彼の私有財産です。

即ち私有財産の絶対というのは神の意思なのです。

中世の財産に対する考え方は「家産」というものです。

先祖から受け継いだものですから、先祖の遺訓とか一族の思惑とかによって所有権の行使は制限されます。

それをロックは、財産は自分が働いて作り上げたものだから自分のものだという説明をしたのです。

ここにおいて所有権は絶対になり、思うままに処分を出来ることにもなったのです。

この「家産」から「絶対的な所有権」への変化というのは経済活動に大きな影響を及ぼしました。

例えば、先祖代々の田畑を所有している百姓が、「田畑を売ってその金で船を買い貿易した方がはるかに儲かる」と考えたとしましょう。

「家産」という考えに捉われれば「自分の代で百姓を辞めるわけにはいかない」と考えてしまいます。

親戚のおじさんも説教をしにくるでしょう。

この状態では、彼には自由な財産の処分権はないのです。

しかし「額に汗して日々耕しているから、この田畑は維持できているのだ。

だからこの田畑は自分のものだ」とロック式に考えれば、先祖の遺訓や親戚のおじさんの説教は無視できます。

そして彼は田畑を売り、船を買って貿易商となり、富を増やしていきます。

資本をより有効に活用することが出来るわけです。

名誉革命後のイギリスはまさにこの状態だったのです。

このようにロックの「自然状態」は国家や社会はなくても、農地や産業があり私有財産もあるという状態です。

そしてこのような「自然状態」にいる人間は信仰を持ったまともな者たちで、人間同士のルールのあるのです。

このルールをロックは「自然法」と呼んでいます。

この自然状態でも、怠け者でルールを乱す人間が出てくるので、国家がないと不便です。

そこで人間が集まり、「社会契約」によって国家のルールを定め、支配者に自分の持っている「自然権」の一部を委託することになったのです。

ジョン・ロックが描いている社会は、信仰を持った真面目な人間で構成されており、怠け者から自分たちを守るために国家を作りました。

信仰を持った真面目な人間はよく働きますから、財産を持っています。

一方怠け者は貧しく社会の治安を乱します。

結局、ロックの国家は私有財産及び治安を守ることが目的なのです。

そして国家の中核はまともな人間ですから、小さな政府で十分なのです。

ホッブスのように人間はいい加減なのが多いから強力な政府が必要だというのとは人間観が違うのです。

自然状態にある平等の立場にいる人間が契約によって権力を王様に預けただけですから、国家権力の暴走を食い止めるために憲法を作ったわけです。

このようにして、ロックは民主主義の理論を作り上げました。

さらに国家権力の暴走を防ぐために抵抗権や革命権も人民に認めたのです。

ロックの思想は1688年の名誉革命後のイギリスの支配的な思想になっていきます。

そしてこの思想はイギリスの植民地だったアメリカにも普及しました。

そのときにイギリスはアメリカに駐屯している軍隊の経費をアメリカ人に負担させようとして印紙税法を制定しました。

イギリスは税金をかける時は必ず議会の同意を得てからにしていました。

議会というのは国民の代表ですから、イギリスの政府は社会契約説に基づいて、契約の当事者である国民に同意を求めているのです。

ところがアメリカの植民地はイギリスの議会に代表を送っていませんから、イギリスという国家を作る社会契約に参加していないということになります。

だから「代表なければ課税無し」のスローガンで印紙税に抵抗したのです。

結局、アメリカは当時のイギリスを支配していたロックの「社会契約説」を盾にとってイギリスに抵抗したのです。

そして独立戦争を始めましたが、「独立宣言」というのはロックの思想そのものです。

アメリカはロックの思想によって出来た国なのです。

小室博士はアメリカが銃社会なのも社会契約の思想によるものとしています。

人間が自分を守ろうとするのは自然権で、自分の権利の一部を国家に委託した後も、自分を守る権利があると考えているからなのです。

しかしロックの思想はイギリスやフランスにも普及していますが、銃社会ではないので、細かいことですが私は疑問に思います。

プロテスタントの「予定説」は資本主義も作り出しました。

古代の支那もアラブも経済が盛んでしたが資本主義は生まれず、近代のヨーロッパに発生しました。

資本主義の発生には元手だけではなく、資本主義の精神が必要だったのです。

そして小室博士は、資本主義の精神を生み出したのが、金儲けを真っ向から否定した予定説だったと説明しています。

カルヴァンの思想はキリスト教を本来の姿の戻すというもので、富を持つと人間は堕落するというものでした。

ですからどんな些細な贅沢も許さず、信者は質素な生活をしていてお金を使いませんでした。

そして予定説では、神がその人間の人生を予め定めているわけですから、自分の職業も神が選んだものでした。天職なのです。

天職であるなら怠けるわけにはいかず、安息日以外は一所懸命に働いたのです。

生活に必要なものを稼いだら後は遊ぶという発想ではないのです。

またキリスト教には、もともと労働が救済であるという思想がありました。

カトリックはこの思想を修道院の中だけで実施していましたが、プロテスタントはこの思想を一般人にも適用したわけです。

予定説では自分が救済されるか最後まで分らず不安になるので、心を落ち着けるために懸命に働いたのです。

結局プロテスタントはどんなにお金を貯めても仕事を辞めようとしない、仕事中毒になったのです。

また、他人が求める商品やサービスを提供することはキリスト教の教えである隣人愛をおこなったことになり正しい行為なのです。

商売で暴利を貪ってはいけませんが、適正な価格で売ることは差し支えないのです。

ですから定価販売になってゆき、事業の結果の利潤は隣人愛の実践の指標にまでなりました。

アメリカでは「貧乏なのは怠け者だからだ」という思想が定着していますが、このプロテスタントの信仰から出てきているのです。

また、以前に触れたようにプロテスタントにとっては神の教えに合致しているか否かが大事なのであって、昔から続いているというだけの理由では納得しません。

目的に対して有効かという合理的な精神が出来てきたのです。

財産を自由に処分でき、資本を最も効率よく使えるという所有権の確立もこの精神を助長しました。

このような精神的な改革が行われて資本主義の精神が生まれたのです。

このようにプロテスタントも予定説から「民主主義」と「資本主義」という近代の思想が生まれました。

議会政治のルールの中で一番重要なのは、「公約を守ること」だと小室博士はいいます。

19世紀前半のイギリスには「穀物法」がありました。

穀物の輸入を制限する法律で、地主である貴族を守るための法律でした。

資本家はもともと自由貿易を主張している上に、外国の安い穀物を輸入できれば労働者の生活が楽になるので、賃金をその分減らすことができます。

だからこの法律には大反対でした。

当時の政党は保守党と自由党で、保守党は地主の政党、自由党は資本家が基盤でした。

穀物法が重大な争点であった選挙で保守党が勝ち、党首のピールが首相になりました。

ところが、ちょうどその時に植民地だったアイルランドで大飢饉が起きて数十万人が餓死し、数百万人がアメリカに逃げ出すという事態になりました。

そこで保守党のピール内閣も穀物法を廃止して海外からの安い穀物を輸入することにしました。

ところがここでピール首相に対して論戦を挑んだのが、同じ保守党のディズレーリでした。

彼はユダヤ人ですが、後にイギリスの首相になった人物です。

ディズレーリは、ピールに首相を辞めろと迫ったのです。

「穀物法の廃止は誰が考えても当然の処置である。しかしピール首相は穀物法堅持を公約に掲げて選挙に勝ったではないか。

だったらピールには穀物法を廃止する資格は無い。

自由党に政権を譲り、自由党内閣に穀物法廃止を任せるのが筋ではないか」というものです。

またディズレーリは、ピールは自由党の政策を盗んだとも非難しました。

この大演説を聴いた保守党の議員たちはディズレーリの言うことをもっともだと思い、ピールから離れていって、保守党は少数派になってしまいました。

イギリスでは、このときに憲法が完成したと考えられているそうです。

三つの議会政治のルールが出来たのです。

1、選挙公約はかならず守るべし

2、他人の公約を盗むな

3、議会における論戦ですべてを決する

三番目は多数派工作ではなく、言葉で勝つべしという意味です。

150年前に議会政治のルールが確立したイギリスと比べて、小室博士は日本の現状を大いに嘆いています。

社会党は、自衛隊反対・消費税反対を公約に掲げてきたのに、村山富一が首相になったとたんにこれらを容認しました。

そして村山首相は、「自社さ連合」という国会の多数派を頼みにして辞任しませんでした。数を頼んだということです。

また自民党の加藤紘一は森内閣を倒すといって造反しましたが、国会で論戦すべきところを議会外の多数派工作をしたのです。

これなど250年前のイギリスと同じ状態だと小室博士はいいます。

私は半年ほど前の、郵政公社民営化選挙を思い出しました。

郵便局の勢力を選挙基盤に持つ自民党の議員が、民営化断固反対を公約にして当選しましたが、その直後の国会では民営化に賛成の投票をしました。

自民党にい続けたいがために公約に反して賛成投票したのに、その後に党規違反で自民党を追い出されています。

これについては言う言葉もありません。

「日本の学校教育では絶対に教えてくれませんが、近代デモクラシーの大前提は契約を守るということです」と小室博士は言います。

社会契約の精神が無ければ国家は暴走します。

ヨーロッパ人は契約を言葉にして、内容を明瞭にして破ったか否かをすぐに分るようにしますが、これは聖書の影響です。

旧約聖書には、神との契約を破るとどんなひどい目に遭うかという実例がたくさん書かれています。

そして神との契約の内容は詳細に書かれています。

この旧約聖書をキリスト教徒は幼い頃から読まされますから、神との契約は絶対守らなければならないという概念ができあがり、人間同士の契約も同じように考える様になったのです。

そして人間関係を結ぶ際にも、まず契約を作ろうと考える様になりました。

この考えから社会契約という発想が生まれ、国家と人民の間も憲法という契約で規定するようになりました。

日本人は江戸時代の心学の影響で金銭の貸し借りの約束は守る習性は身についていますが、人間関係全般を契約で律しようという発想がありません。

ですから、選挙の公約という契約を破っても何とも思わないのです。

これは非常に深刻な問題です。

このように政治がだらしなくなってくると皆が「実行力のある人」が現れるのを期待するようになります。

独裁者の出現です。

財産のない庶民も政治に参加できる「民主主義」を今の日本人は無条件でよいものだと思っています。

しかしヨーロッパでは最近まで「民主主義」は非常に評判が悪かったと小室博士はいいます。

「貧乏で教養のない連中に政治が出来るか」という反感です。

2500年前のギリシャのアテネは民主制が最高潮に達して市民全員が参加する政治を行っていました。

当時のアテネ人は自分たちの制度を最高のものだと自慢していたのです。

ところがこのアテネが、貴族制のスパルタと戦争をして負けてしまいました。

民主制というのは意思決定に時間がかかり、非常時の対応が苦手なのです。

また哲学者のソクラテスは市民の行った裁判で死刑の判決を受けてしまいました。

これは彼の反対派のやっかみによる讒言を市民が真に受けてしまったからでした。

この二つからソクラテスの弟子のプラトンや孫弟子のアリストテレスは「民主主義とは貧乏人の政治だ」と断定したのです。

プラトンやアリストテレスはヨーロッパの古典中の古典ですから、知識人はその影響を大きく受けたのです。

近代に入ると、共和国になった革命フランスでナポレオンは頭角をあらわし、最後には国民投票によって皇帝になりました。

民主主義の制度を利用して、民主主義を覆したのです。

ナポレオンが没落してから40年後に甥のナポレオン三世も、国民投票で皇帝になっています。

第一次世界大戦後のドイツでもヒットラーがワイマール憲法を殺して独裁者になりました。

このように貧乏人を政治に参加させると独裁者が出てくるのです。

アメリカの建国者たちはこのことを良く知っていて、大統領選挙に工夫をこらしました。

国民が一時的な熱狂にかられて独裁者を選ばないように、一年かけて全国を巡回してまわる制度にしたのです。

一年も選挙運動をしていると、候補者にいろいろとボロが出てきて熱狂も醒め、冷静になるのです。

さらに選ばれた選挙人が大統領を選出するという間接選挙という安全弁も備えました。

最近の日本の憲法改正論議の中に、首相を国民の直接投票で選ぼうという説があります。

小室博士は、選挙に金をかけるのを嫌がる日本人がアメリカ式に時間と金をかける選挙をして候補者を冷静に選べるか心配しています。

「民主主義」という言葉が誤解されたというのも、評判が悪かった理由の一つです。

フランス革命のとき、過激派であるジャコバン派のリーダーだったロベスピエールは盛んに「民主主義」という言葉を使いました。

そして「民主主義」の名の下に恐怖政治を行い、数万人をギロチンにかけて死刑にしたのです。

ジャコバン派の中には貴族から土地を取り上げて小作農に無償で分けることを主張するものが多くいました。

要するにジャコバン派の「民主主義」というのは共産主義のことです。

リーダーのロベルピエール自身は土地の再配分に慎重だったのですが、ジャコバン派全体がそう思われていたのです。

ここで民主主義がプロテスタントの予定説から産まれてきたことを思い出して下さい。

「神の前では皆平等」という発想から「法のもとの平等」というのが出てきたのです。

あくまで平等にルールを適用しようという考えです。

宗教というのは精神的なもので現実の富の不平等にはタッチしません。

むしろジョン・ロックなどにより私有財産は神のみこころに適うとまで考えられていたのです。

このようにヨーロッパ人の「平等」には財産の平等という発想が含まれていないのがむしろ普通なのです。

ですから、ジャコバン派の主張する「財産の平等」には一般のヨーロッパ人、特に資産家は神の意思とは別のものを感じたのです。

「民主主義」という言葉が良いイメージに変わったのは、第一次世界大戦にアメリカが参戦するときに、大統領が「民主主義を守るため」といってからだそうです。

独裁者が出てきたほうが、国民の生活が良くなることが多いのだと小室博士は説明しています。

ナポレオンはフランス革命の混乱を収拾し秩序を回復したので、経済はみるみる良くなっていきました。

おまけに対外戦争は勝ち続けて、フランス人には良いことばかりでした。

ヒットラーも公共事業を行うことで不況を克服して、ドイツ経済を立て直したのです。

このように「民主主義は良いものだ」とノーテンキに信じ込んでいる日本人に、小室博士は厳しく警告しています。

第九章は「平和主義者が戦争を作る」というタイトルです。

日本国憲法第九条には二つの規定があります。

第一項は、「国権の発動たる戦争は永久に放棄する」となっています。

第二項は、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」となっています。

小室博士は第一項の戦争放棄だけに話を絞っていくと書いていますが、文章を読んでいくと「軍隊を持たない」という憲法の条文を明らかにナンセンスと考えておられます。

論旨は明快なのに、第二項の説明を避けている理由は私には分りません。

色々と気を使っているのでしょう。

小室博士は最初に、「学校で、日本国憲法は世界で唯一の平和憲法であり、憲法第九条は世界に誇るべきものであると教えているが、これはとんでもない誤解だ」と書いています。

平和主義条項を持つ憲法は世界中で124あり、国連加盟国185カ国の三分の二にもなります。

「国際紛争解決の手段としての戦争」を放棄するという日本国憲法そっくりの条項を17カ国の憲法が持っています。

ハンガリー、イタリヤ、カザフスタン、フィリピンなどです。

これらの憲法の条項は、日本国憲法と同じく1928年に締結された「ケロッグ・ブリアン条約」という不戦条約を下敷きにしているのです。

第一次世界大戦(1914~1918年)の戦死者は1000万人、さらに1000万人の民間人も死傷しています。

あまりに被害が大きかったので、平和主義が台頭しこの不戦条約になったわけです。

実はヨーロッパでは戦争に対する考え方が変遷しています。

中世ヨーロッパには「良い戦争」と「悪い戦争」がありました。

正義を実現するための戦争が「良い戦争」でその反対が「悪い戦争」です。

「不正義を実現するために戦争をするぞ」などと主張するバカはいませんから、どちらも自分の戦争が「良い戦争」で相手が「悪い戦争」ということになります。

この典型的なのが宗教戦争です。どちらも「神の正義は自分たちの側にある」として戦いました。

その結果、ドイツの30年戦争など極めて悲惨な状態が起きてしまいました。

しかもそれで問題が解決されたわけではなかったのです。

そこでこの反省から戦争を善悪で捉えるのではなく、現実的に考えるようになりました。

戦争をリアリズムで考えようという思想の典型がクラウゼビッツです。

私が彼の存在を知ったのはトルストイの「戦争と平和」を読んでいた時でした。

主人公のボルコンスキー公爵が、ロシア軍の連隊長として戦場にいたときに、クラウゼビッツとグナイゼナウというプロイセンの軍人が馬で彼の目の前を通りすぎていきました。

そして彼はこう言うのです。

「あいつらは、自分の祖国がナポレオンに占領されたから、ロシア人に戦争の仕方を教えに来たわけだ」

クラウゼビッツはドイツのプロイセンの将校でしたが、祖国がナポレオンに占領されたために仲間とともにロシア軍に勤務し、フランスと戦い続けたのでした。

ヨーロッパでは最近まで他国出身の将校というのは普通だったのです。

彼の書いた「戦争論」は近代戦のバイブルとして今でもその価値を保っています。

私も昔に読んだことがありますが、戦争の本というよりは哲学の本のようで難しくてあまり良く内容を覚えていません。

しかしその冒頭部分はよく覚えています。

「戦争とは他の手段をもってする外交であり、外交とは他の手段をもってする戦争である」というものです。

それぞれの国は、自国の利益を確保するために知恵を絞って外交を行います。

通常の外交手段では国家の利益が達成されない場合に戦争という手段を選ぶことになる、というのがクラウゼビッツの思想です。

だから戦争は国家の利益という目的を達成するための手段に過ぎないという考え方です。

中世の戦争は「正義の戦争」であり感情の戦争です。

ですから戦争の目的は相手を叩き潰し皆殺しにすることで、損得や自国の損害など考えません。

一方の近代戦は利益の確保が目的であり、相手に勝つことが目的ではありません。

近代戦は経済的利益を追求するためのものですから、「良い戦争」や「悪い戦争」という区別はありません。

どの国も自国の利益を追求することは当然であり、どの国も自由に戦争をすることが出来、誰も他国の戦争を批判することが出来ないというものです。

そして戦争を損得という合理的なものにすることによって、感情の対立の結果の戦争のような悲惨なことになるのを防げるというものです。

ナポレオン戦争前から、戦争とは国益を守るために行うものであり、「良い戦争」や「悪い戦争」という区別はない、という時代が続きました。

このような時に第一次世界大戦が起きました。

戦争から善悪の判断を取り除けば戦争の被害は限定されるはずだったのにそうはなりませんでした。

兵器の進歩によって死傷者が激増したのです。

また従来の戦争は敵味方の軍隊が衝突すればおのずと結果が決まりましたが、第一次世界大戦では総力戦になりました。

戦場での戦いの上手下手よりも、武器弾薬や物資をどれだけ作れるかがカギとなりました。

その結果、戦争は単なる軍隊の戦いでなく、国家の工業力・経済力の戦いとなりました。

その結果、戦争は国家経済そのものを痛めつけることになったのです。

このような悲惨な結果になり、第一次世界大戦後のヨーロッパでは平和主義が力を持つようになり、1928年にケロッグ・ブリアン条約が締結されることにもなったのです。

この条約の提案者の一人であるケロッグはアメリカの国務長官でしたが、この条約の批准をめぐってアメリカの議会で大いにもめました。

「この条約は国家が自らを守る権利まで否定するのか」という疑問がわいてきたからです。

そこでアメリカの議会はケロッグを証人に呼びましたが、彼は明確に「自衛戦争は対象外」と断言しました。

日本国憲法第九条は、このケロッグ・ブリアン条約の言葉をそっくり借りて作っていますから、この条約の解釈に基づいて第九条を考えるのが当然です。

戦後の日本で第九条が自衛戦争まで否定しているのかが大問題になりましたが、こんな議論は全く無駄なことだったと小室博士は言っています。

国家は国民の生命と財産を守るためのものですから、自衛権を持つのは当然で、自衛権を放棄するということは国家の役割を放棄することです。

そこで第九条の第二項の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」という規定が問題になります。

一項で国家は自衛のための戦争をするのが当然ということになれば、二項と矛盾するのです。

小室博士は「日本国憲法は死んでしまったが、また復活させることも出来る」としていますから、この一項と二項の矛盾を説明しなければなりません。

しかしこの矛盾を合理的に説明することが出来ないから二項に関しては沈黙してしまったのでしょう。

日本国憲法九条の一項と二項は矛盾していて合理的な説明が出来ません。

これは、日本国憲法の草案がドサクサ紛れに作られてろくに検討もされなかったということの証拠です。

また日本国憲法は、主権者たる国民があずかり知らない間にでっち上げられたことの証拠でもあります。

まともに国民に説明できないような内容だからです。

私がかねてから考えているように日本国憲法など成立していないのです。

小室博士は、このケロッグ・ブリアン不戦条約は役に立たなかっただけでなく、第二次世界大戦を引き起こした原因だと主張しています。

第一次世界大戦で負けたドイツは、ベルサイユ条約で領土を削られ、莫大な賠償金を課せられ軍備を制限されました。

その後1929年に発生した大恐慌によって世界中の国の経済が悪化しましたが、敗戦国ドイツは特にその影響が大きかったのです。

その時にヒットラーが率いるナチス党が政権をとり、ワイマール憲法を廃止してナチス党の独裁体制を作り上げました。

そして公共投資と軍備への投資によって見事にドイツの経済を復活させました。

このときにヒットラーはドイツ人にとって神様のような存在になったのです。

その後ヒットラーはドイツを再び強国にしようとします。

ドイツが再び強国にならないように貧しく弱い国に留めるのがベルサイユ条約の目的ですから、ヒットラーは次々とベルサイユ条約を破っていきます。

戦勝国に対する賠償の支払いをやめました。

次に徴兵制を復活し軍備を大幅に拡張し、ラインラントにドイツ軍を進駐させました。

ラインラントはフランスとの国境にあるドイツ領で工業が盛んなのでフランスがドイツから奪おうとした土地だったのです。

しかしアメリカとイギリスの反対でこの割譲は潰されました。

そこで国際連盟の管理下に置いてドイツ軍を進駐させないようにしたのです。

そういういわくのあるところにヒットラーはドイツ軍を進駐させました。

これは明白なベルサイユ条約違反ですから、フランスは出兵してドイツ軍の進駐を阻止することが出来たのです。

しかしフランスは出兵しませんでした。

一切の戦争はいけないという平和主義にフランス政府は縛られていたからです。

ヒットラーはオーストリアという外国生まれの下層階級出身であり、貴族が中心だったドイツ軍幹部は彼を信用していませんでした。

しかしラインラント進駐を成功させたことにより、ドイツ軍幹部はヒットラーに心服するようになりました。

ドイツ軍がラインラントに進駐したとき、フランス軍が出兵していればドイツ軍は簡単に蹴散らされたはずでした。

当時のドイツ軍はまだ弱体だったのです。

この成功に勢いを得たヒットラーは、同じドイツ人の国であるオーストリアを併合しました。

このときにもイギリスとフランスは平和主義に縛られて出兵できませんでした。

次にヒットラーはチェコのズデーテン地方を割譲させようとしました。

チェコは第一次世界大戦まではオーストリアの領土であり、チェコのドイツ国境にあるズデーテン地方の住民はドイツ人だったのです。

ドイツ人が住民の土地をドイツに併合しようということです。

ズデーテン地方はチェコ防衛の要衝でありここがドイツ領になればチェコの防衛は不可能になります。

さらにチェコはフランスの同盟国で、チェコの防衛が不可能になればフランスの国防計画が崩壊します。

ヒットラーはイギリスとフランスを脅すために「ズデーテンをドイツに渡さなければ武力行使もやむなし」と宣言しました。

これにイギリスとフランスは吃驚して、ドイツのミュンヘンでヒットラーと首脳会談をすることになりました。

ミュンヘン会談の成り行きをヨーロッパ中がかたずを呑んで注目していました。

決裂すれば戦争になるからです。

ところが戦争にはなりませんでした。平和主義の本場であるイギリスのチェンバレン首相は何が何でも戦争だけは避けることに最初から決めていたからです。

ヨーロッパの平和が維持できるのであればズデーテンの割譲など安いものだと思っていたのです。

ミュンヘン会議でズデーテン地方のドイツへの割譲が認められて、ヒットラーが外交的勝利を得ました。

そしてヨーロッパの覇権はドイツに移り、同盟国チェコを見捨てたフランスは信用を失いました。

余談ですが第二次世界大戦のドイツ敗北後、チェコはズデーテン地方のドイツ系住民の財産を没収し彼らを国外追放しました。

この追放によりドイツ系住民200万人が死亡しました。

チェコがEUに加盟を申請する際に、ドイツはこの残虐行為を非難しチェコに謝罪と賠償を求めました。

チェコは謝罪し、賠償に対してはしどろもどろの返答を繰り返しています。

ミュンヘン会談でヒットラーの要求を認めたイギリスのチェンバレン首相は「私はドイツから名誉つき平和を持ち帰ってきた」といいました。

イギリスの大衆も「イギリスが戦争を防いだ」と彼を大歓迎しました。

1940年にフランスがドイツに降伏した時、イギリスの戦争を指導したチャーチルは次のように語っています。

「この戦争は、すでに1938年のミュンヘン会談において負けていたのだ」

つまりミュンヘン会談でヒットラーはイギリス・フランスの平和主義を最大限に利用しました。

ドイツに時間を与えたことによりドイツは戦争準備をすることが出来たのです。

そして満を持したドイツ軍にイギリス・フランス軍は破れたのです。

イギリスがミュンヘン会談で強硬姿勢を示せばヒットラーも要求を引っ込めたはずです。

「戦争もやむなし」という覚悟があれば戦争は避けられたはずだ、とチャーチルは言ったのです。

「平和主義は戦争を招き、戦争をする決意のみが戦争を防ぐ。」

というのが第二次世界大戦の残した教訓です。

そしてこの教訓を生かしたのがジョン・F・ケネディー大統領でした。

彼はアイルランドからの移民の子孫で、父親は禁酒法時代に酒の密造で大儲けしました。

ところが刑務所に行かずにかえってイギリス大使になりました。

酒と女が大好きで、ケネディー大統領の女好きも父親譲りのようです。

ケネディー大統領はハーバート在学中に父親の赴任先のイギリスに行き、ミュンヘン会談前後のヨーロッパの政治を学びました。

そして帰国後大学に出した卒業論文は「ミュンヘン協定でのイギリスの外交政策について」というものです。

彼が大統領の時の1962年にキューバ危機が起きました。

ソ連がアメリカの裏庭であるカリブ海のキューバに核ミサイル基地を作ろうとしたのです。

ケネディーは「戦争をする決意のみが戦争を防ぐ」という教訓にしたがって強硬手段をとりました。

「キューバのミサイル基地が撤去されなければソ連からの攻撃とみなして直ちに攻撃する」と宣言したのです。

その結果ソ連はキューバのミサイル基地を撤去し平和が維持されました。

小室博士は平和主義を痛烈に批判しています。

「口で平和、平和と唱えれば平和になると思うのは、照る照る坊主を吊るせば天気になると信じているのと何の変わりもない。

平和宣言を出せば国際平和につながると考えているとしたら、それは中世の呪い師と同じです。

日本は文明国なのですから、呪術の段階を卒業して学問的・科学的な態度で平和にアプローチしなければなりません。

すなわち、世界一の平和大国になりたければ、世界一の戦争通になる必要があるということです。

ところがどうでしょう。

今の日本の大学にも大学院にも軍事学の専門コースはどこにもない。

防衛大学校があるではないかという人がいるかもしれませんが、あれは軍人のための学校です。

戦争のことを軍事のプロに任せていたのでは、とうてい平和大国とはいえません。

さらに政治家の中で、どれだけ戦争を研究した人がいるでしょう。

日本の政治家で第二次世界大戦の教訓を徹底的に研究した人がいるでしょうか。

平和主義に凝り固まっていたイギリスが滅びずにすんだのはチャーチルという無類の戦争好きがいたからといっても過言ではありません。

いたずらに戦争の危機を煽り立てるつもりはないが、今の日本はかつてのイギリスより危ない。

何しろ、ついこの間まで、日本では「戦争の研究」をする人間はみな好戦的と決め付けられてきたくらいですから。」

という具合です。

さらに憲法第九条よりもっと深刻な事態を忘れてはならないともいっています。

すなわち、日本国憲法は死んでいるということです。

今の日本には外国からの侵略を心配するほどのゆとりは残されていない。

外国が日本を滅ぼす前に、日本が自滅していたのでは話にならない。

ここで第一次世界大戦前から第二次世界大戦後までのヨーロッパをおさらいします。

ナポレオン戦争以前からの百年以上の間、ヨーロッパでは良い戦争と悪い戦争の区別はなく、国家が利益を追求する上で必要なこととして、外交の延長上に戦争が位置づけられていました。

戦争を損得勘定にすることにより、感情からおこる戦争のような「皆殺し」とか「全滅覚悟」というような悲惨な状態を防げると考えられていたのです。

ところが損得勘定で始まった第一次世界大戦は、兵器の発達と総力戦ということで被害が非常に大きくなってしまいました。

そこで従来はなかった二つの考え方が出てきました。

「正義の戦争」という発想と「平和主義」です。

戦勝国もあまりに被害が大きかったために敗戦国から賠償金や領土を取って辻褄を合わせようとしました。

賠償金を取るには相手が悪いことにしなければなりません。

そこで善悪というものを戦争に持ち込んだのです。

ベルサイユ体制は「悪」であるドイツを懲罰し、再び悪が甦るのを防ぐという体制です。

戦勝国に有利な体制ですからそれを維持するには戦争によってこの体制が覆されないようにするのが好都合です。

そこでイギリスやフランスは、沸き起こった平和主義を自分たちの体制を維持するために利用しました。

この体制は、本来どちらも善でも悪でもないものを、一方を悪と決め付けてそれを固定しようとするものでしたから、ドイツ人が納得するはずもありません。

結局、賠償金は殆ど払われず、フランスは国土をドイツに占領されてしまいました。

国家間の戦争に善悪を持ち込むのは無理があるのです。

同じことが第二次世界大戦の日本でも起きました。

日本も支那もアメリカも国益を追求して戦争をしました。

日本が負けた後、第一次世界大戦後と同じように戦争を善悪で色づけしたのです。

そして日本は侵略国家だということになりました。

その一方で、アメリカがインディアンやフィリピン・メキシコを侵略したことには触れていません。

オーストラリアにいた原住民はイギリスに殺されてしまいました。

イギリスやフランスが世界中を侵略し植民地にしたことにも沈黙しています。

支那が満州やウイグル、チベットを今も侵略し続け、住民を虐殺していることにも黙っています。

これらの国はずっと昔から支那とは別の国なのです。

それを支那が武力で占領しただけです。

朝鮮が元寇の際にモンゴルの先鋒として日本に攻め込んできたことも不問にされています。

そもそも1500年前、南朝鮮の海岸地方は任那といって日本の領土だったのが、侵略されてしまったのです。

また江戸時代の朝鮮は江戸の将軍に対して朝貢していましたから、朝鮮全体が日本の領土だともいえるのです。

また明治になって日本は朝鮮を植民地にしたわけでもありません。

朝鮮と日本が合併して大きな日本になったのです。

このように支那や朝鮮が日本を非難している内容は、そっくりそのまま相手に返せるのです。

では何故、日本はこのような反論をしないのでしょうか?

それは日本がポツダム宣言を受け入れたからです。

ポツダム宣言は日本やドイツを悪と決め付けていますが、それを日本が受け入れたからです。

戦後「国際連合」が出来ましたが、この言葉はもともと日本やドイツと戦った「連合国」という意味です。

すなわち、国連というのは戦勝国のサークルなのです。

ですから戦勝国が善で敗戦国が悪だという価値観を維持し続けています。

そして日本が国連の価値観に従順なのは、未だに敗戦国の状態から脱却できないでいるからです。

「自虐」といって日本は何でも悪かったという考え方は、国際連合の発想で勝者のものです。

敗戦後日本が復興するには戦勝国の援助が必要だったので、このような考えを受け入れたわけです。

ですから「自虐」は国策でもあったのだと私は考えています。

それにたいして最近反省の気風が出てきたのは、その悪影響が非常に目立ってきたからだと思います。

「自虐」の思想を宣伝しているのは主として学校の教職員で、彼らは公務員ですから敗戦国たる日本の政府の方針に従っていたのです。

日本の政府が本当に自虐に反対だったのなら、もっと早い段階で対策をとっていたはずです。

日本政府は経済的復興を優先したため、本当の歴史を隠蔽して日本人が正しい判断を下す基礎を奪ってしまったということです。

また民族の精神的な力を過小評価した結果でもあります。

精神的な支えを失うと活力そのものがなくなってしまいます。

逆に民族の活力さえ維持できれば何とかなることも多いのです。

ユダヤ人を見てください。

自分たちの土地を追放されても2000年がかりで取り返しました。

またマスコミも「自虐」を宣伝していますが、日本のマスコミが準公務員だということは皆さんもすでに十分承知していると思います。

このように、第二次世界大戦は国家間の損得勘定で起こったのですが、敗戦国は戦勝国の善悪の基準を押し付けられたわけです。

日本は敗戦国の状態のままで60年が過ぎてしまったということです。

ドイツも第二次世界大戦の敗戦国という点では日本と同じですが、「自虐」を克服しつつあるようです。

先にも書きましたが、ドイツ敗戦直後チェコはズデーテン地方に住んでいたドイツ系住民を追放し財産を没収しました。

200万人のドイツ系住民が死亡したそうです。

最近チェコがEUに入る申請をした際に、ドイツの首相はチェコの過去の残虐行為に言及してチェコの大統領を怒鳴りつけました。

そうしてチェコは平謝りに謝ったのです。

またドレスデンというドイツの都市はアメリカ軍の空襲を受け10万人の非戦闘員である市民が死にました。

最近ドイツの首相は、ドレスデン空襲の記念式典にアメリカのクリントン大統領を招待し、その時の演説でアメリカの野蛮さを非難しました。

クリントン大統領はおとなしくその演説を聴いていたそうです。

ここから分ることは、今も昔と同じく戦争は損得勘定だということです。

ドイツはいまやEUの中心でヨーロッパの覇者になっています。

ですからドイツの言うことに屁理屈を並べて反論するという無駄なことをしないのです。

つい最近、日本やドイツが国連の常任理事国入りを目指した時、支那は戦後のドイツの態度を褒め、それに対して日本は何だ式の非難をしました。

これもこの文脈で理解すべきです。

またイランの核開発問題は六カ国協議になっています。

六カ国とは支那を含めた五つの国連常任理事国とドイツです。

つまり、イラン問題はヨーロッパの代表であるドイツを入れないと収まらなくなっているのです。


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